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萌木の村マガジン

「自分たちがものを売って喜ぶ」のではなく「いかにお客さんに喜んでもらうか」-ROCK50 年の歩み④ 石原清

2021

May

27

萌木の村アーカイブ

ROCKの歴代店長へインタビューをする、「ROCK50年の歩み」。前回は白倉徳三に話を伺った。白倉まで明確な店長が存在せずROCKが運営されてきたとの話だったが、今回こそ、明確な店長なのだろうか。第4回目は、萌木の村が開村するまでの期間、ROCKにいた石原清。ROCKの精神やROCKのメニューにカレーが出始めた話などを伺った。

ROCKに来た理由

―はじめに、石原さんがROCKで働き始めたきっかけについて教えてください。

 私の場合、少し複雑なんです。実は一度来て働いてから、しばらく間を空けてまた働いているんです。1回目は研修のために来たんです。私は地元が南アルプス市の小笠原なんですが、そこで知り合いの人が飲食店を始めるにあたり、私が店長として働くことになったんです。その当時、飲食店の知識がなくて、厨房設備業者に相談したらROCKを紹介されたのが働き始めたきっかけなんです。

―そうなんですか!ROCKで働きたいから来たわけではなくて、研修目的だったんですね。

 1回目の時は1974年頃かな?2~3ヶ月ほどROCKで働きました。その後、南アルプス市の知り合いのお店で1年くらい働いて、体調が優れなくなって辞めてしまったんです。それで静かで自然が豊かなところだとゆっくりできるんじゃないかなと思い、上次さんに「1人ROCKで働きたい人がいる」って電話をしたんです。上次さんは「石原君の紹介ならいいよ」って言ってくれて、それで私が直接行って、快く受け入れてくれたんですよね。

―紹介という形で、実は自ら面接に行ったんですね(笑)。南アルプス市のお知り合いのお店を辞めた後、自然でゆっくりということであれば他にもいろんな場所があったと思いますが、なぜ再びROCKで働こうと思ったんですか?

 上次さんの人柄に惹かれたんですよね。それから、上次さんのパパさん、ママさんもとてもいい人だったんです。1回目の研修の時、すごくお世話になった。だから、またROCKで働こうと思ったの。

左:舩木良、中央:石原さん、右:舩木淳

ROCKでの思い出

―再びROCKで働き始めて、そこからは長期間働かれたんですか?

 1975年頃から萌木の村がオープンする直前の1979年まで働いたな。

―その間、店長をされたりしましたか?

 ハットウォールデンを立ち上げるってなったときから店長、といっても名ばかりでしたけど、やるようになりました。上次さん、弟の淳さんの二人が役所へ申請関係でROCKを空けている昼間に現場責任者みたいなことやった。夜、二人が帰ってくれば、上次さんがマスターとしていたので店長だからって大きな決断を迫られるわけではなかったです。

ホテル「ハット・ウォールデン」ができたころに販売されていたオリジナルグッツ。石原さんがROCKに寄贈してくださいました。

―今度は明確に店長ですね。以前取材したお二人は、ROCKにとって重要な方では間違いないのですが、明確な店長という感じではなかったので今度はどうだろうと思っていました。それで、ROCKで働いている間、何か印象的なエピソードはありますか?

 思い出に残っているといえば、冬はすごく暇でしたね。一日の売り上げが300円なんて時もあった。当時、冬はスキー客が東京や静岡から清里を通って長野県の志賀高原へ行っていたんですよね。大体、夜中の2時3時くらいに通るんですよ。当時の国道141号線って100km以上飲食店がなかったと思う。それで上次さんが、通る人がお腹を空かせているだろうって考えたの。昔はROCKのそばに公衆電話があって、そこにホットサンドとポットに入れたホットコーヒーを置いておいて、無料で提供してた。で、帰りに容器を返してもらうなんてことをやっていたな。

―それは、無人販売のようなものなんでしょうか?

 いやいや、販売ではなくサービスで。事前に、スキーで通るから用意してほしいってお客さんから連絡をもらったときそういうサービスを時々していたんだよね。

―今じゃ、そんな大盤振る舞いのサービスするなんて、普通の飲食店では考えられないですね。

 上次さんは人を喜ばせたくてそういうことをしたんだよね。

―そうなんですね。他には何か、思い出深いエピソードはありますか?

 月に1回、スタッフ全員でミーティングみたいなのをしたんですよね。各々が意見を言うというか提案をするということがあった。清泉寮などで食事をしながらやってたんだけど、そこには上次さんのパパさんも出席して家族会議みたいんな感じでだったね。

―そこでは、もめたりしたんですか?

 そういうわけではないんだけどね。例えば、お客さんから音楽がうるさすぎるという話があると、上次さんが「いやいや、ROCKっていう名前のお店なんだから音が大きいのは当たり前」って言って、あえて音楽を小さくすることはなかったな。

―アットホームな雰囲気だったんですね。

 そうですね。ミーティングと言うより、食事会、懇親会という感じだった。スタッフ全員で何かやると言えば、元旦には近くの美し森でご来光を見たりもしたね。アットホームな雰囲気と言えば、お客さんとの距離も近かったな。例えば、当時休憩時間が2~3時間あったんです。それで、お店に来た人に上次さんが「これからどこ行くの?」と声をかけて、近くへ行くって話すと、「じゃあ、これから休憩だから案内するよ」って車を運転して近くを案内するなんてこともあったね。

ROCKビーフカレーの謎

―石原さんはROCKのカレーの明確な始まりってご存じですか?白倉さんの取材の時に伺ってはいたんですが、白倉さんは「自分のいた頃にはなかった」と仰っていていましたが。

 以前、萌木の村で発行した新聞で、同じようにカレーのルーツを探ろうってことで話題になったんです。その時も、いつ始まったのか明確には分からないということで終わりましたね。僕が1回目、研修に来たときにはなかった。ただ研修の頃、上次さんにいろんなメニューってことでスパゲティーとか作り方を教えてもらった。確かその時、メニューになかったカレーも作って見せてくれた。それで、また働き始めた時にはカレーがメニューにありましたね。

2015年に発刊された萌木の村新聞7月号

―その空白の1年の間に、カレールーツの鍵がありそうですね。そこは改めて取材してもいいかもしれないですね。

 再び働き始めたときには、ママさんの民宿の地下室に大量のジャム、確かイチゴとアプリコットかな?それがあったんです。トラック1台分ですね。

―ROCKスタッフの話では、店頭販売用に仕入れたら、発注ミスで大量に届いてしまってそれが売れずに残ってしまったみたいですね。

 とにかく、それをカレーに入れたら甘みのある濃厚なカレーになったんです。ただ、面白いですよね。カレーが売りの1つであるROCKで、カレーのルーツが不明だなんて。

―確かにそうですね(笑)。逆に、今ROCKでは、創業からあったホットサンドがなくなってますが、石原さんがいた頃はありましたか?

 ホットサンドはメニューにあったね。あとはワッフルやトースト、ステーキサンドなんかもあったな。でも、人気なのはカレーとホットサンドでしたね。

―当時は、カレーとホットサンドで二枚看板だったんですね。ちなみにメニューで、当時他に出されていたものはありますか?

 牛乳ですね。ROCKから南に行った所に酒井牧場があるのですが、毎朝、絞りたての熱で加熱殺菌していない牛乳をもらいに行ってたんですよ。一升瓶2~3本持って行く、毎朝の日課でしたね。

―今じゃ、なかなか考えにくいですね。

 一応、傷まないよう冷却はしていました。アイスミルクで出すこともありましたけど、ほとんどホットミルクでした。今の時代は、衛生上の関係でできないでしょうけど。

独立

―さて、いろいろROCKでのエピソードは出てきましたが、しばらくROCKで働いた後、萌木の村ができるタイミングで辞めた理由はなんでしょうか?

 今もやっていますが、メリーマックという革工房のお店を始めることになり、ROCKを辞めたんです。

メリーマック店内

―そうなんですね!なぜ革工房をやろうとなったのですか?

 萌木の村を立ち上げる計画することになって、その当時はホテルのハットウォールデンしかなく、付帯設備がなかった。テニスコートぐらいしかなかったんですね。それで、最初は工房兼ペンションを3軒、付帯設備で作ろうという話になり、誰かやりたい人って募集がかかったんです。その当時、私は革細工が趣味で、革のベルトとか小物を作っていたんですよ。それで、じゃあやりますってことでお店をやることになった。準備もあったので、萌木の村がオープンする前に辞めたんです。

―萌木の村は、当初、工房兼ペンションのお店の予定だったんですね。

 でも、ペンション経営の経験がなかったので、それは素人には冒険のし過ぎだったんです。営業計画も立てられない、稼働率を考えるのが難しいなどあって、結局工房のみということになったんですね。

―そうしてお店をやられて、現在も続いていらっしゃいますが、ご自身のお店経営にROCKでの経験は何か生かされていましたか?

 お客さんに接する精神というか、向き合い方というか、すごく参考になっています。「自分たちがものを売って喜ぶ」のではなく、「いかにお客さんに喜んでもらうか」ってことがまずありましたね。ROCKも、おいしいものをとにかく提供するなら、どこかでコックさんを雇うということもできたんでしょうけど、そうはしなかった。でも、それだと例えば隣に同じようにおいしいお店ができたら廃れてしまうかもしれない。安売り競争じゃないですけど、追いかけっこになってしまうんです。でもROCKは、そうではなく、隣に何が来ようが自分たちを変えることなく、「お客さんにまず喜んでもらうこと」が第一でしたね。それは上次さんの感覚ですね。

石原清から見た舩木上次

―今ちょうど少し触れましたが、石原さんから見て、舩木社長はどのような方だったんでしょうか。

 表現のしようがないようなすごい人でしたね。懐が深いのか、鈍いのか分からないのですが、大きな器を持つ人です。あと、とてもフレンドリーで、とにかく人を喜ばせようという人ですね。私がいた頃、「サソリ」っていって、B5のノートぐらいの大きさの木の玉手箱みたいなものを上次さんが作ったんです。中に、割り箸にゴム紐をつけたものがゼンマイのようにねじって入っていたんです。それで、少しフタを開けると、割り箸が回ってフタに当たり「カタカタ」って音が鳴るんです。それでお店に来た女の子をキャーキャー驚かせていましたね。それで、上次さんが「驚かせてごめんね」っていってオレンジキュラソーに砂糖、レモン果汁を入れてお湯で割ったものをサービスしていた。男の子には料理の量を多くしたりしていたな。女の子は心を満たして、男の子はお腹を満たす、そんな感じでしたね。

―他にはどのようなキャラクターというか、性格の方だったんですか?

 欲がない人ですね。売り上げが合ったとしても全然自分の趣味に使わない。オルゴールを気に入ったら博物館を作る。トラクターを気に入ったらどこからか調達して来ましたね。本人は計画しているんでしょうけど、周りからみたら思いつきに見えなくもないような人でした。周りは少し振り回されちゃうこともありましたがね。

―何か、舩木社長との印象的なエピソードはありますか。

 あるとき、私がふと「もしROCKが潰れたらどうします?」って上次さんに聞いたことがあったんです。そしたら上次さんは「俺はダンプカーの運転手をしてまで君たちのために働く」って言ったんです。その言葉は今も心に焼き付いてるんだよね。お店と言うよりは人を見ていた。その言葉は20代の頃に聞いた。そんな若者なかなかいないですよね?

―自分も、今20代ですけど同じ年代の頃、そうはなかなか考えられないですね。

初代の建物を建て替えた後のROCKの写真。こちらも石原さんがROCKに寄贈してくださいました。

これからのROCKについて

―最後になりますが、今のROCKについてどう思いますか?またこれからも長く続いていくためにはこうした方がいいんじゃないかということはありますか?

 ROCKを辞めてからはあんまり来られていないから、今のROCKについてはなんともいえないですね。スタッフからは外国の方が多いくらいしか聞いていないです。今のROCKと昔のROCKは一緒に見れないですね。規模も違うし、見ている方向も違う気がします。今のROCKで、昔の形態のROCKをやろうとするのは不可能でしょうし。比較はできないですね。

―確かに、昔と今では規模は違いますね。では別の切り口として、昔からある精神だとか忘れないでほしいことはありますか?

 それはありますよね。今の方も頑張っていらっしゃいますし、精神というか残すものは残していってほしいですね。お客さんを喜ばせる精神というか。それは上次さんの弟の良くんが、きっとその精神を貫いているんじゃないかな。

―なるほど。本日はお話を聞かせていただき、ありがとうございました。

第4回目である今回、石原清に取材をした。石原は正式に店長として働いていたようだ。取材で明らかになったが、この頃からROCKの代名詞ともいえるカレーが出始めたようだが、その起源が意外にもあいまいのようだ。このことは別途、掘り下げてみてもいいかもしれない

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