萌木の村 村民かわら版

八ヶ岳・清里高原「萌木の村」のスタッフが綴る季節ごとの村の表情や、個性あふれる各店舗のあれこれです。
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お知らせ

Y313931163.jpg 私はふる里をアルコール文化発信基地にしたいと思っています。
今年はスタッフ達と一緒に掘った室がやっと出来上がりました。また、3年前からホテルのバーを改修し、バーテンダーの久保田君の夢と共に、素敵な時を過ごせる場所にしました。そして、お酒の飲めない私がウィスキーの魅力にハマっています。飲んでいる人がうまいウィスキーを飲んだ時の幸せな顔を見て、それなら「そんなうまいウィスキーを飲んでもらおう」と思ったのです。
最初はスコッチウィスキーから勉強を始めました。私はホワイトホースやジャックダニエルしか知らなかった訳ですから、マッカランやボーモアなど単語一つの意味が理解できず、闇の中を歩いているような状態でした。
そんな中、お客様やバーテンダーの皆さんに指導されたウィスキーを集め始めました。そして、ここ1年間は特に日本のウィスキーに惹きつけられました。それはウィスキーから1980年代やそれ以前の日本という国が見えてきたからです。日本ではモンデ酒造、協和醱酵、東亜酒造、宝酒造、東洋酒造、本坊酒造、合同酒量、合同酒精、キリンシーグラム、ニッカウィスキー、サントリーというメーカーがウィスキーを作っていました。「その時代から今までのウィスキーを入手出来ないか?」これが私の日本のウィスキー集めの第一歩となるのです。
何も知らない私は都会の有名な大きな酒屋さんから回ります。しかし、目当てのウィスキーはほとんどありません。甲府で残っている酒屋さんを回りますが、やはりほとんど見つかりません。当時は町の中心的役割を果たしていた酒屋さんが、酒の販売方法が法律で変わったため、ほとんど廃業のように追い込まれてしまいました。都会ではそこに新しい店が入れ替わるのでしょうが、地方では「酒」という看板が残ってはいますが、多くは廃屋です。日本酒やワインで特別な知識と入手ルートを持っている店だけが生き残っておりますが、ウィスキーはほとんどありません。80年代、90年代はウィスキーが飛ぶように売れたと口々に皆さんが言います。地方では、ここ15年位ウィスキーは安売店かコンビニエンスストアーでしか売れていない状況です。
そんな中、80年代からずっと酒屋さんを続け、おじいちゃん、おばあちゃんだけで頑張っている小さなお店があります。私が行くと昔お二人で頑張ってきた時の話をしてくれます。そして、棚の奥に埃を被ったまま10年、20年ずっと置かれたウィスキーがあります。私は今日までそんな酒屋さんを300件位尋ねました。中には倉庫を片付けてから電話をすると言ってくれたおじいちゃんが2か月、3か月経っても電話がかかって来ないので、訪ねて行くと、店は閉じ、おじいちゃんは亡くなっていた事もありました。今、私が探し出さなければ、そんな埃を被ったウィスキーはこの世から消えてしまいます。田舎はいつも宝物がいっぱいあるのに気付かず、失ってしまっている事が多いのだと思います。私自身もそうです。始めはサントリーのザ・ウィスキー、ニッカの竹鶴、メルシャンの軽井沢21などを探しました。しかし、日本のウィスキーを知れば知るほど、良いとか高いとかではなく、すべてのウィスキーが時代背景の中で作られ、今でも続けて製造されている物、消えてしまった物など、興味の幅はどんどん広くなり、今ではマグナムボトルという大きなガラス瓶も集め始めてしまいました。そうすると、またそこから知識が広がります。
一人のお酒好きな人が毎週一本ずつ飲むとすると、1年間で48本飲みます。しかし、その人が亡くなってしまうと全く売れなくなるというような話を酒屋さんからいっぱい聞きました。ちょっと前の日本は今よりずっと楽しかったように思えるのは、私だけでしょうか?
集めたお酒は飲むためにあります。私の集めた古いお酒はすべて抜栓します。希少な1本でも構いません。ただし、飲む理由だけは持っていて下さい。ただ飲むだけだったら、いつでも入手出来る物を飲んで下さい。私共の古酒は、見合った価値が有る人に飲んでもらいたい。そんな使い方が出来れば、20年も30年も、このお酒を守ってきたおじいちゃんやおばあちゃんも喜んでくれるのではないかと思います。
上次さんの気持ち
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マンスリー上次さん 5月号

 私は今、何かに取りつかれたように夢中で、フィールドバレエ、ウィスキー収集、山野草ガーデン造りに励んでいますが、すべてに共通して言える事は、今まで培ってきた経験と人との関わりがあったからこそ、やり遂げられると痛感しています。私は自分自身で何かを極めたとか、何か一つの事をコツコツとやり続けたというものはありません。しかし、私の知人・友人達の中には、一つの事をやり通している「巧み」といわれるような、その道の第一人者の方々がたくさんいます。それは地元にも、遠方にも。私が何かをしたいと思った時、いつもその友人達が私を助けてくれるのです。
清里フィールドバレエは一人一人その道のプロという人達が集結します。監督、音響、照明、大道具、小道具、ファイアーアート(花火)、衣装、舞台監督、芸術監督を始めとするダンサー達。私はその方々に「今年で25回目を迎えるこの記念の公演を節目の公演として、昨年に続き“THE”をつけ、“ここだけの”、“この時だけの”感動の舞台にしたいので力を貸してほしい」とお願いしました。すると今まで24回行ってきた経験と知識から、これまでバレエの舞台では行った事のない新しい提案が幾つも出され、実現可能なのか議論が熱く交わされました。今年は私が思っている以上の舞台が提案できそうです。清里フィールドバレエは、世界中でここだけの感動の舞台になります。私はその光景を想像するだけでも、今からわくわくしてしまいます。しかし、フィールドバレエは野外ですので雨の降った日の事も頭によぎります。舞台に関わる人も、見に来て下さる人も期待が大きいだけに雨による中止は大きな落胆にかわります。神様はすべてを与える訳ではありません。そんな試練があるから私達は一回りも二回りも成長出来たと思います。今、私達はより素敵にフィールドバレエを見ていただくため、ポール・スミザーさんの指導のもと、会場を始めとする萌木の村の環境整備を行って3年目を迎えます。今年は八ヶ岳に自生する山野草が力強く芽を吹き始めています。
今回そんな素敵な舞台が実現出来るのは皆さんが支えてくれたからです。
本当にありがとうございます。
上次さんの気持ち
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